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世界には様々な洋食器があります。それらのデザイン、アイテムの形は時代背景と深く関係しており、歴史をなしには語ることは出来ません。それぞれの国の特徴を交え、楽しんでください。 イメージ



洋食器と言っても、用途に合わせた様々な種類があります。

【洋食器のアイテム・種類】


【食器に関する豆知識】
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ドイツ

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 ドイツにはいくつかの名窯があります。しかしそれはまずマイセン窯をなくしては語れません。マイセン窯はヨーロッパ、世界に広がるようになったのも、最初は錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガー、絵師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルト、彫刻師ヨハン・ヨアキム・ケンドラーら3人の力でした。
彼らはそれぞれの専門分野で天才的な才能を発揮し、マイセンの躍進の基礎を作り上げました。特にベドガーは良質のカオリンを使用し、ヨーロッパで始めての真正磁器を完成させました。ヘロルトはマイセンのデザイン、彩画パターンを完成させその成果によって宮廷絵付師の地位を得ました。アウグスト王に招かれたケンドラーは磁器彫刻において華々しい活躍をしました。
3人の活躍によりマイセンはヨーロッパ一の名声を得ますが、7年戦争によって技術者たちは各地に散らばり、その場その場で新しい窯を開くことになります(KPM窯、ヘキスト窯など)。南ドイツ、セルブ地方にローゼンタール、フッチェンロイターなどの窯が誕生し、ヨーロッパ磁器の栄華時代を担うほど、洋食器においてドイツは重要な国です。



イギリス

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 伝統と格式を好み重んじるイギリス。他の国より遅れてスタートしたイギリスの陶磁器は土着の素朴な製陶技術も活かしながら徐々に成長していきました。上質なカオリンが発見されなかったことも遅れた一因ではありましたが、イギリスがヨーロッパ本土から海を隔てた地であることも起因していました。1745年ごろヨーロッパ各地で開発された陶磁技術がイギリスに伝わり、製造の研究に先が見え始めるようになりました。1749年、トーマス・フレイによりボーンチャイナ(磁土に動物の粉骨を混ぜ焼成)が発明され、イギリスの陶磁器は飛躍的な発展を遂げる事になります。今や陶磁器産業において質的にも量的にも世界を凌駕するそのイギリスの陶磁器の歴史を感じると、決して安直ではなく努力のもとにあったと言えるでしょう。

 



フランス

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 フランスの洋食器を語るに2つの出来事を上げる必要があります。一つはファイエンス(イタリア製のマジョリカ)との出会い、そしてもう一つは東洋のポーラセンとの出会いです。15世紀から16世紀にかけて、フランスはイタリアの陶工を招きファイエンスの窯を開きその華麗さを表現しようとしました。しかし一方では東方からの輸入磁器に影響を受け、磁器作成への試作も始まります。リモージュ近くで純白のカオリンが発見されたのは1760年代になります。その後フランスの磁器は新しい硬質磁器に移行し、各地に次々と新しい窯が開かれることになります。フランスが誇るセーブル窯は、1738年ヴァンセンヌに築かれ、その後試行錯誤を繰り返し、ポンパドゥール夫人の助力を得て時期の開発に成功。1756年に国立窯となり発展をしました。 

 



その他の国々

  【その他の国の洋食器】

ヘレンド・リチャードジノリ・ロイヤルコペンハーゲン・アウガルテン

 

イタリア

 イタリアに銅釉による食器や鉛釉による壷、皿などが普及しつつあった時代、スペインから招来したマジョリカ陶器はイタリア人を驚愕させました。遠い憧れと見ていた中国や日本の陶磁器に似て、白い肌に美しい色彩の文様は彼らをマジョリカブームへと駆り立てます。強力な経済力を持った様々な土地で相次いでマジョリカ窯が開かれ、それらはイタリア国内のみでなくヨーロッパ中に輸出もされました。しかし地肌の白さと生地の硬さにおいては磁器に劣るため、また高身分の者たちの関心は軟陶から磁器に移り、マジョリカは次第にその勢いを無くして行きます。苦難の末に1735年、フィレンツェ郊外のドッチアにてカルロ・ジノリ侯爵の尽力のもと、リチャードジノリが誕生しました。

 

ハンガリー

 ハンガリーは北欧フィンランドと同じく東洋系のフン族を祖先に持つ国でヨーロッパでは特殊な位置と思われていました。それため芸術や工芸等にはしばしば東洋的なデザインを感じるものがあります。ハンガリーには通称ハバンと呼ばれる錫釉エナメル磁器があり、これはハバン族と呼ばれる移住民族が作り出したものでイタリアのマジョリカと同じような経緯で普及したものです。オスマントルコの支配と入れ替わりに影響を与えに来たのが当時ヨーロッパで権勢を誇ったハプスブルク家です。当時の皇帝フランツ・ヨーゼフは1839年ヘレンド村に窯を開かせました。しかし燃料用の木材を多量に必要としたため、ヘレンド村周辺50キロ四方には森林がなくなってしまうという状態になりました。当時のヘレンドがいかに需要があり生産されていたかを表しています。

 





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